いつか分からないけど書けたら、詳しく書こうと思っているけど、最近また、この本の言葉が私の頭をよぎります。
私は、世間一般から客観的にみると、あまり恵まれない星の元に生まれた様でした。
生まれた時から、父はおらず、母と一緒に暮らすことも叶いませんでした。
私は独りぼっちと、自分勝手に思い込んでいました。
高校にも行けず、働きながら独学で勉強しました。そして今で言う、高卒認定資格をとり、専門学校へ進みました。
14才の頃の私は、よく一人で泣いていました。
親を選ぶことはできません。
生まれる国を選ぶこともできません。
自分で選べない問題を前にして、私は無力で、途方に暮れていました。
生まれてこなければ良かったとばかり、考えていました。
私は、今も昔も、どこから見ても、いつもニコニコ明るく元気で、子供の頃なんて人一倍、お転婆娘でした。
一見すると、泣きそうには見えない感じです。
でも夜になると、お布団の中で、一人よく泣いていました。
ヘッセの“春の嵐”の冒頭の一節は、そんな私を救ってくれた言葉。
自分の一生を外部から回顧してみると、特に幸福には見えない。しかし、迷いは多かったけれど、不幸だったとはなおさら言えない。
あまりに幸不幸をとやかく言うのは結局まったく愚かしいことである。
なぜなら、私の一生の最も不幸な時でも、それを捨ててしまうことは、全ての楽しかった時を捨てるよりも、辛く思われるのだから。
避けがたい運命を自覚を持って甘受し、善いことも悪いことも十分味わいつくし外的な運命とともに偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得することこそ人間生活の肝要事だとすれば私の一生は貧しくも悪くもなかった。
外的な運命は、避けがたく神意のままに、私の上をすべての人と同様に通りすぎて行ったとしても、私の内的な運命は私自身の作ったものであり、その甘さ苦さは私の分にふさわしいものであり、それに対しては私ひとりで責任を負おうと思うのである。
自分では、どうしようもない事を嘆いたり、恨んだりする事は違う。
世間一般の誰かさんから見て、自分が幸せか不幸か?なんて考えて、その目に怯える必要なんて全くない。
自分で選ぶことができない、避けがたい運命は嘆かず、進んで受け入れよう。
でも、その避けがたい運命に対して、どんな心で向き合って生きていくのか、それこそが私の本当の運命で人生なんだ。
この本の一節は、14才の泣いてばかりの私に気づかせてくれました。
沢山、迷ったり、間違ったり、失敗したり…
それなのに、結局、いつまでも気ままは治らず、好きな事ばかり言い散らかす、ちゃらんぽらんなmouになってしまったけど…。
私は私に、とても満足しています。
たった1度の人生だもの、
誰が何と思おうと、ヘッチャラ。
私が決めることだし、その責任も私が負うこと。
お金が幾らある?どこの大学の出身?親は?
それらは本当に心満たしてくれるモノなのかな?
何が私の心満たすものかどうか…それは私が決めること。
何が私の幸せかも…それは私が決めること。
そんな風に、やっていこうと、14才の時、決心したんです。
もちろん我慢したりもするし、子供のために頑張ってみたりもするけど…。
失敗しても、迷っても、自分の好きな様に生きてこれたから好しかな?って思います。
迷い道、下り道、登り道、全部、楽しみにしています。